鉄砂掌的日本传人---龍清剛
愛読書「中国拳法・秘伝必殺 鉄砂掌」 龍清剛 日東書院武術書としての内容の充実度,迫真性もさることながら,読者をぐいぐいと引きつける筆者の文才には驚かされます。このようなすぐれた書物が廃刊になっているとは,武術界のみならず世の中にとって大きな損失だと思います。
「中国拳法の武勇伝について」
先にも述べたように、中国拳法の名人には、この種の創作された話が常につきまとっている。それがかえって、一瞬にして敵を葬りさる本当の実力を隠してしまっているともいえるのである。いいかえれば、でき得ないことを信じるということは、本当にでき得る恐るべき力に対してわかってないということもいえる。これはマジックまがいの表演を見て信じる人は、本物の威力を見て、マジックと思うのに似ている。例えば、ある中国拳法名人が人を打った。ところが打たれた人はフッ飛ばされて木の枝にひっかかって死んだとか、人の脳天を一撃したところ打たれた人は目玉がとんで出て死んだとか、鷹爪拳で筋肉をひきちぎった、というストーリーがあるが、グリズリーやコダックベア(アメリカ大熊)でもあるまいし、人間の力でできることとできないことがあるのである。秘術というものは、そうした動物の持つ大蛮力の限界にせまるものではなく、全く違った意味において人間の持つ能力の限界を超えていくものであり、これが秘術なのである。
結論としていえば、正しく功夫を学ぶ人は、あくまでその現実を重んじ、架空の話や能力を聞いてまどわされることのない真剣な学習精神から、常識では不可能と思われていたことも次第に習得して、できるようになるのであって、これは夢を見ないで現実を尊ぶ心から生まれてくるものなのである。
ここに発表したのは鉄砂掌練功である。これは、手の組織を変化させ、打人のときに発する勁力を習得するためのものであるが、その中で説いたように、腰馬(下盤)が強固に安定し、その両脚は釘で地面に突きささったようでなければならない。腰馬ができ上がっていてこそ、功夫というものは強撃することができる。すなわち、トウ[足登]・チャク[足易](フォントが無いが、それぞれ爪先・足裏での蹴りの事である)を発するときにも柔軟であり、速度も速く、その勁力も強いのである。したがって、功夫を用いて戦うとき、ここに発表する練功を行い、功夫の行える体に鍛練してゆくならば、その効果はさらに強大なものとなるのである。
鉄砂練功の項で、ガラスのような手で闘うことはできないと説いたが、ガラスのようなボディや豆腐のような顔面では、一発食らったらそれでおしまいである。達人でもないのに、自分が一方的に相手のパンチや蹴りを一発も受けないで勝とうと思うのは、相手を板であると思っている思想に他ならないのである。
ちなみに、タイ国のムエンタイ・ボクサーと一度闘ってみるとよい。私のいっていることが完全に立証されるであろう。彼らは常になぐられ、蹴られて、その中を苦練して生き抜いてきたのであるから、その打たれ強さは想像を絶するものがある。これは、ムエンタイに限らずいかなる格闘技においても同様だ。ファイターと名がつく限り、バキバキ打たれても、簡単にはくたばらないように鍛錬されているものである。高手でもない者が、ちょっと中国拳法のこむずかしいことがわかったという理由だけで、こうしたプロファイターを一発で倒せるという夢を見てはならない。
龍清剛的这「鉄砂掌」一书也有译回中文在中国传播...
圖中的这位似乎是「胡少葆」大師...顧汝章的弟子...
这兩种练功方法似乎是万籁声的功法...
これは、著者が間接的に聞いたことであるが、ある中国拳法団体師範の話によると、「今の人間と昔の人間は違います。それは環境や一切のものが違うのです。今の人間は足も弱くなり、昔の功夫がやったようなことはできません。したがって、私達は誰でもできるように、現在新しく制定された中国拳法を教えています。これは、現代に住んでいる私達が、昔のままの型をやっていれば、そのポーズの厳しさや動きが、到底そのまま再現できにくく、無理にそれをしようとすれば、ポジションは崩れて、かえっておかしなものになってしまうものだからです」といったという。筆者は、これを聞いて非常に感心したのである。これは、現代の人間の体を非常に知り尽くした人の言葉である。たしかに、老人や優しい女性、子供でも、身体の弱い人でもできる万人向けの中国拳法はそうあるべきかとも思う。しかし、筆者に言わせれば、誰でもできる功夫を勉強するのと、本物の功夫になるのとでは、やり方が違うのである。すなわち、昔のやり方をするからこそ昔の功夫の発したような威力を再現することができるのであって、今のやり方をしたら「その他大勢的な力」は得られても、それ以上の威力を発揮することができないのは当然のことなのである。
筆者が本書に発表するのは、健康法を主体とした易筋経、または八段宓趣颏丹椁巳崛趸丹欷郡猡韦趣袭悿胜辍⑽涔ε嗓斡盲い刖毠Ψà扦ⅳ辍ⅳいいà欷泄Ψ颔榨ˉぅ咯`たるべき者の練功法である。したがって、武功を求める強壮者がこれを行えば、さらに強固な肉体を獲得し、健康上にも莫大な威力を発揮するが、身体虚弱者が無理をしてこのような難姿勢をとれば、年寄りの冷や水のような結果が生じるかもしれないので、その点はご注意願いたい。
私は誰にでもできる功夫や誰にでもできる練功を説いているのではない。真に、強者たるべき功夫となるべき武術とその練功法の一部を説いているのであるということを、ここに明記しておく。(中略)
しかし、ここである人は疑問を抱かれると思う。それは、中国拳術には小柄で元来虚弱に見えるような人が、かえって達人である場合が非常に多いという事実である。しかし、これらの達人は強壮な人間が行う練習よりさらに厳しい練習を己に加え、巨漢と対決したときにそれを一撃に葬り去る工夫と錬磨を重ねて完成されたものであって、その信念と不屈の努力は、強壮者に勝るとも劣らないものであることを知っていなければならない。
虚弱な人が強い信念を持って自分と対決し、それでも進んでゆくのなら非常に立派なことである。しかし、自己がそれだけの先天的天分に恵まれていないにもかかわらず、功夫という意味を知らないで、ただ理論に走り、苦練をさけ、わずかな努力で大きな効果を得ようとするほど愚かなことはない。ここで、あえてこのことを強調しておきたい。
この本には龍清剛氏の指導するこの拳法道場「双龍拳法総会」は「日本では関西方面に存在する」と記されている。 その衝撃的な本が世に出たのは1983年初夏の事。それは、これまでに存在していた中国武術の本の読者に驚天動地の驚きをもたらした。
この本の本当の凄さは「本物が書いた本物の本」だと云う事である。この本は現在絶版で、あまり知られていない本だが、私が20年間手放した事のない唯一の武術書であり、これに匹敵する本を私は知らない。また別の場所でも述べているように「身体論」の深い実践書でもある。
「少林拳と勁について」
ただ脚を高く上げるだけなら、体の柔らかい女の子なら少しの練習で頭のテッペンまで楽々と上げることができる。練習時は確かに、脚は高く上がるように練習しなくてはならない。しかし脚が高く上がるのと、その蹴りが効くというのは全く別の問題なのである。それゆえ、アクロバットのように脚をビュンビュン高く蹴り上げているという理由で、その人が強いと思うのはとんでもない間違いである。ただ脚で蹴り上げるだけなら、バレリーナの方が強いのである。
初心者が少林拳を習い始めてしばらくすると、パンチや蹴りのとき手や脚がバキバキと鳴り始める(むろん高手もそうであるが音が違う)。しかし、拳脚がバキバキ音を立てたからといっても、それは自然勁といわれるものを獲得したにすぎない。人体の内蔵を破壊するような蹴りとは勁の種類が違うのである。
「鉄砂掌について」
アメリカは、日本と異なり、自己の防衛権利を認める国家である。アメリカの街でジム・ボーイもどきの大きな登山ナイフを、チンピラが腰にぶらさげて歩いても、警官にとがめられることはない。しかし、ブラックジャックという武器を持って歩くと、見つかったが最後軽くて半期、長ければ1年間はブチ込まれる。ナイフは護身のためとして認められるけれども、ブラックジャックの威力を知りつくしているアメリカでは、これは完全な凶器以外の何物とも認められないのである。
鉄砂掌とは、特別な練法をもって、手をブラックジャックのように変えてしまう秘術である。それゆえ、鉄砂掌熟練者の一撃は、容易に人の脳を破壊し、内蔵を破壊して死に至らしめるので、殺人技としてこれを嫌う拳法家が多い。しかし、ある面では「仙人掌」とか「神砂掌」とかいわれ、精妙な秘術とされているのである。
よく人から「拳法をなさっておられるのにたこも何もない優しい手をしておられますね」といわれるが、これこそ中国有数千年伝来の秘伝の薬酒にこれを浸し、秘伝の練法をもって錬磨された手であり、これはブラックジャックよりさらに恐ろしいのである。(中略) 単車に仱盲皮い皮窑嗓そ煌ㄊ鹿胜摔ⅳ盲郡趣廿毳幞氓趣扦夥坤欷胜い瑜Δ恕⑺絹Kびに高弟の掌撃はヘルメットをも通して相手を昏倒させることができる。それほどのものだからボクシングで用いるヘッドギアーを着けたくらいでは、顔に紙一枚はっているほどの防御効果もないのである。
私の高弟に玉井清鳳・清麟の2人の兄弟がいる。2人とも当会の最高師範位を持っている。この玉井兄弟のうち、清麟は高弟らに稽古をつけるのが荒いので有名である。練習中脚を蹴り折り、日に3度は弟子を気絶昏倒させるので、アメリカの弟子らは「彼はエクスキュッスナー(死刑執行人)だと言って恐れている。もちろん彼なりに手加減しているのであるが、つい勁が出てしまうのである。あまりに危険であるので現在の段階では門人に稽古をつけることを禁止している状態である。このように、ミスをして人を気絶昏倒させるのはいけないけれども、また逆にいえば、それでこそ本当の秘伝を習得した功夫であるともいえよう。
私が今、こうした話をしているのは、日本人にも理解できるようにするためである。中国拳法家は、こんなことは決して本に書かない。が、その実、上層部の香港中国拳法家が集まったとき、こういった話題に時間を忘れて談笑するのである。
「破壊力と殺傷力」
こうした物体をたたき割ることは、功夫の本筋ではない。しかし、熟練者がいったん勁力を発するときは、こうしたことも容易にできるものであるということを示しているのであって、本当の意味での試し割りにすぎない。
よく人から「功夫というのは、どれだけの破壊力があるものですか?」と尋ねられるが、この質問自体が間違っているので返答に困ってしまう。
功夫は、あるときにはこうした物体をこわして見せるけれども、いわばこれは、余興にすぎないのだ!功夫の勁力は、正直にいえば”制敵”そして”殺敵”にある。つまり、その殺傷力を論ずるものであって、破壊力を論ずるものではない。
かつて、プロ空手第一流選手として活躍した龍拳兒君は、私の高弟の1人である。
彼はすでに“秘伝技法・本物の発勁打人の法”も完全に習得し、そのパンチの速さも異次元的スピードと変じ、今や超格闘能力者と化している。
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